2012年6月26日火曜日

名誉毀損の要件:番外編-団藤博士の偉大さー

団藤重光博士

法律を学ぶ者にとって知らない人はいないビッグネームである。
名誉毀損の領域においても,今もなお輝きを失わない記述がある。

真実性・真実相当性法理の位置付けは,刑法230条の2第1項の
「名誉毀損行為が,公共の利害に関する事実にかかり,その目的がもっぱら公益を図るためであったと認められるときは,事実の真否を判断し,真実であることの証明があったときは,これを罰しない。」
とする規定の解釈論に関わるものであった。

団藤博士は,その主著「刑法綱要各論」(なお引用は,第三版。団藤博士ご自身は,以下の最高裁が採用したと自ら評価される旧説から改説されている)において,次のとおり記述している。

「第一に考えられるのは,事実が真実であったということを阻却原由とみる見解である。これは多数説のとるところで,一見,明快のようである。しかし,この見解をとる以上,事実が真実でなかったばあいでも,行為者が事実を真実だとおもって摘示した以上,つねに故意を欠くものとして無罪としなければならない。これは事実の証明があったときにかぎり罰しないものとする規定の趣旨にそわないというべきである。
そこで第二に,事実が証明の可能な程度に真実であったことをもって阻却原由とみる見解が考えられなければならない。これは,従来わたくしが主張して来た考え方である。けだし,法律が実体法的なものと訴訟法的なものとを結びつけて230条の2の規定を設けている以上,その解釈にあたっても,両者の結合を直視した上でこれを実体法の面からとらえることを試みなければならない。そうして,「真実であることの証明があったときは罰しない」という訴訟法的表現を実体法の平面に投影させて考察するときは,事実が証明の可能な程度に真実であったことを阻却原由とみるべきである。そうして,故意論にこの見解を適用すると,行為者が,証明可能な程度の資料・根拠をもって事実を真実と誤信したときは,-たとい事実の証明がなくても-故意を欠くものとして罪とならない。これに反して,その程度の資料・根拠なしに事実を真実と妄信しても,故意を欠くとはいえないということになる。」

この団藤博士の記述は,次の点において今もなお重要な価値を有していると考える。

1 名誉毀損の「真実」が,「証明可能な程度の真実」に過ぎず,神の目から見た「真」の「真実」ではないとする点
2 真実相当性の位置付けについて,真実相当性で免責されるためには,「証明可能な程度の資料・根拠」が必要であるとした点である。

1の見解に対しては,批判が多いとされる。証明対象を修正するものであるとか,実体法上の「真実」はあくまで真実であるべきであって「証明可能な程度の真実」ではないとかというものである。この団藤旧説を証明対象を修正する説として別個に位置付けたり,「裁判時も,行為時も違法性阻却事由の内容は事実の真実性のはずである」(前田雅英「刑法各論講義」第4版)などとしている。

しかし,これらの批判はおかしい。批判の説の根底には,「真実」が神の目から見た「真実」であるとしているという理解しかできない。名誉毀損を裁判で処理する場合,証明可能な程度の資料・根拠をもって証明されなければ,証明がないものとして「真実」とは認められない。それが神の目からみて,たとい「真」の「真実」であってもである。裁判上証明がなかったとして「真実」と認められなかったとしても,後日新資料が発見等され,真実性の証明がされる場合もあるし,逆に,裁判上証明がされ「真実」と認められたとしても,神の目から見れば「真」の「真実」ではないかもしれない。裁判が人間によりなされる以上,「真実」は,証明可能程度の資料・根拠であるなしを判断するしかないのである。元々実体法上の「真実」は,神の目から見た「真」の「真実」ではなく,「証明可能な程度の真実」でしかないのである。つまり,団藤博士の見解は,「証明対象を修正」するものでは決してない。時に,神の目から見た「真」の「真実」と裁判上の「真実」とは合致しないのである。
団藤博士の見解には,裁判上の真実は,所詮「証明可能な程度の真実」に過ぎないとした冷静な目が根底にあるのである。

1に対する見解は,2の真実相当性の法的位置付けにも重要な影響を与える。
仮に,真実性・真実相当性の両者ともに,証明可能な程度の資料・根拠が必要とするのであれば,真実相当性によって名誉毀損の免責を認めた意味がなくなる,したがって,真実相当性は真実性を緩和した要件と捉える見解がある。「真実性を認定できると軽率に誤信した場合も故意は否定され,無罪範囲が広すぎるであろう」とする見解も同じであろう。

しかし,最高裁が,最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決(平成8年(オ)第576号・判例時報1778号49頁において,
真実性の判断時期は,口頭弁論終結時
真実相当性の判断時期は,行為時
と明確に示したことにより,真実相当性を真実性を緩和したものと捉えることは明らかな誤りとなった。最高裁の見解こそが,真実性・真実相当性の位置づけであり,正に団藤博士が,
「行為者が,証明可能な程度の資料・根拠をもって事実を真実と誤信したときは,-たとい事実の証明がなくても-故意を欠くものとして罪とならない。」
とした部分である。真実相当性判断は,真実性と同じ厳しさがあるのである。

つまり,真実性は,口頭弁論終結時において,証明可能な程度の資料・根拠をもって判断され,真実相当性は,行為時において存した証明可能な程度の資料・根拠をもって判断されるのである。

真実相当性は,行為時における「真実性」と言い換えてもよいのである。

仮に,口頭弁論終結時において真実性が証明できず,真実相当性も認められなかった名誉毀損加害者が,新資料を元に,新たに同じ表現の名誉毀損行為をした場合,
旧口頭弁論終結時→新資料発見→行為時→新口頭弁論終結時
という流れの中で,新資料を勘案した結果,新口頭弁論終結時において真実性が認められるか,又は行為時において真実相当性が認められれば,当然,新行為は名誉毀損から免責される。この場合,旧口頭弁論終結時において判断された「真実性」を覆す程度の「資料・根拠」が必要なことは言うまでもない。
逆に,新資料も入手できず,神の目から見た「真」の「真実」であると信じて,新たな名誉毀損行為をした場合,名誉毀損行為は免責されない。裁判上の「真実」は,あくまで「証明可能な程度の資料・根拠」が必要であり,名誉毀損被害者に神の目から見た「真」の「真実」を信じろと強いるものではないからである。

後者の場合,名誉毀損加害者は,名誉毀損の刑罰を負ったり,損害賠償の責任を負ったりする汚名を得ることになる。しかし,後世,本当に「真」の「真実」が明らかになったときには,その汚名は,名誉へと転換するのである。

これについて,言論を萎縮すると考える者もいる。
しかし,私は,そうは思わない。

正しいと信じた者が,過去を笑うことは歴史的にも多々あることである。刑罰や損害賠償を負おうとも,表現の自由の重さをとることも立場としては理解できるが,それは,名誉毀損行為が免責されるという問題ではないと考える。

もっとも,「真」の「真実」に近付く努力が全く見えないこともあるが。

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H240626追記
団藤先生が死去されました。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc&k=2012062500571

歴史に残る法学者(それにとどまらないですが)に敬意を示し,あげておきます。

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