2010年6月18日金曜日

法的論理と事実の筋・・・論理だけでは

法的論理と事実の筋・・・論理だけでは
[ 事実認定 ]

Last updated 2010.01.30 12:35:48
http://plaza.rakuten.co.jp/utuboiwa/diary/201001300000/ 改訂(H22.6.18)


ある一定の事実を前提に,法的論理を組み立てる。

それが法曹の仕事といってよい。



法的論理は,要件・効果があり,一定の事実がある場合,その要件・効果が発生するという論理の流れを辿る。

演繹的アプローチともいえるが,条文上は,そうである。



しかし,実際の相談では,

何々で困っている,なんとかならないか?

という結論についての解決方法を聞かれることが多い。



結果が生じている場合に,それを変える効果を期待できないか,それに必要な事実があるか,証拠があるかというアプローチをすることになる。いわゆる帰納的アプローチである(若干言葉に正確性を欠くが分かりやすさを優先することとする)。



事実もそれを支える証拠も十分に堅いというならば,あまり問題はない。



どうも証拠が不足する,弱いと考えた場合に,別から同じ結論に導く論理はないかと考える。これは演繹的アプローチであろう。





法的論理と証拠の考え方は,これが基本であるし,間違ってはいない。



しかし,実際は,このようなアプローチは重要ではあるが,これだけで裁判に踏み切るととんでもない目にあう。



ここでは,法的論理しか目にいっていないのである。



裁判の世界では,「筋」というものがかなり重要な位置を占める。

これは,分析的にみれば,法律論理の問題ではない。

法律論理が通らないのは,話しにならず,問題とならない。



法律論理が通っているにも関わらず,筋が悪いという使い方をする。事実に重きを置いた,事実のつながり(これを論理といえば論理)のことを意味する
と考えられる。



具体的に分かりやすいのが,

か弱い女が,男に殴られ怪我をした

という構図とかであろうか。逆だと,かなり,大変であることが分かっていただけると思う。



怪我をさせれば損害賠償義務が発生することは法律の論理であり,論理としては正しい。

どこにも,男が,か弱い女に殴られて怪我をしたことについて免責することは書かれていないのである。



しかし,実際に裁判まで持ってくるということになると,認めて貰うのに,かなり大変な目にあうはずである。



演繹的アプローチの最たるものであろうが,裁判官も人間であるから,いくら証拠があっても,判例で固まっていても,それに導かれる結論を避けたいというものがある。

この点については,かなり重要な規定がある。

提出された証拠についての取捨選択,その証明力を如何に考えるかは,裁判官の自由な判断に任せられるという自由心証主義である。



つまり,かなり良い証拠があったとしても,それを使わなかったり,程度を低く見たり,そもそも無視したりすることが基本的に許されるのである。

実際には,幾ら筋が良くても,全く証拠がないとなると勝てないし,逆に,あまりに強い事実,証拠,法理論を完全に無視して筋のみを重視することはできないから,これらは,かなり交錯しながら考えられていくことになる。





筋が良いことを,アピールすることも重要となる。



男が,女に殴られて怪我をした

という構図である場合,いかに,この構図の不利益を覆すことに全力を尽くす必要がある。

男が,か弱いか弱い女に・・・と持ってかれては,かなり負けに近くなる。



Last updated 2010.01.30 12:35:48




現在のコメント

当時のものを少し改訂しました。

過去のものも書きっ放しにしないで,
機をみて直していこうと思います。


筋良い・筋悪いは,
事件受任の際に,
よく考えなければならないことです。

法律上当然じゃん!
だけでは,勝てるとは限らないのです。