2012年12月6日木曜日

外国人参政権(3)量的許容がある場合との違い・・・認めるか認めないかは大きく違う

外国人参政権(3)量的許容がある場合との違い・・・認めるか認めないかは大きく違う
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Last updated 2010.02.18 21:18:53
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3 量的許容がある場合との違い

 参政権は,量的許容というものがない。

 少しだけ認める,という概念が観念できない性質の権利である。

 認めれば,参政権1票であるし,

 認めなければ,0である

という二者択一しかない権利である。

 

 これを量的許容の有無と名付けてみた。

 

なぜ,参政権がこれだけ問題となるのか,この意味は,例を書くと分かりやすい。



参政権が,これだけ議論になるのは,例えば,生存権(憲法25条)を基礎とする生活保護で考えてみると分かりやすい。


例えば,生存権(憲法25条)を基礎とする生活保護に外国人が認められている。

これは,許容説を前提としているといってよい。

この生存権と参政権とは権利の性質がかなり異なり一律に比べることは,不適切かもしれないが,分かりやすく説明するためのものとして記載する。




今の日本の経済状態は,日本人の生活保護に加えて外国人にも認める余裕がまだあるといってよい。



では,外国人が増大し,日本人の生活保護に不十分にも関わらず,外国人に無制限に生活保護を認める立法がなされた場合は,どうか。



許容説をとっても,そこまでは許容していないとされることで違憲とされる可能性がある。



究極的に経済のどん底に陥った場合,外国人に生活保護を少しでも認めれば,日本人の生存が危ういという状況になれば,禁止説に転換する可能性もある。



しかし,

生活保護は,結局,お金の多寡の問題,財政の問題でもあるから,その制限・程度,禁止と許容と保障に反しているかの境界は曖昧である。

立法政策によって,いくらでも幅を変えることができるから,

日本人に,10万円を与えている状況で,

外国人に,1円もやらないという状況

が直ちに禁止されるとは言い難いであろう。



日本人に,20万円を与えている状況で,

外国人に,50万円を与えている状況

でも,妥当性はともかく,日本人には最低限やっているからいいじゃないか

ということで,禁止とはなりにくい。



表現の自由でもそうである。

外国人の政治的活動発言には,自ずから限界があるとされるのが一般である。しかし,一切の政治的発言は許されないということにはならず,限界がある政治的発言との間には,量的な幅がある。

これも許容説といえよう。



許容といっても,少しは認められるというものと大きく認められるというものがあり,少し認めれば,直ちに禁止となるわけでもなく,大きく認められれば,禁止となることもあり得る。



認められるか認められないか,という二者択一のものではなく,



許容と言っても,量的範囲の幅が広いといえるのである。



しかし,参政権は違う。

認めれば,1票と完全に国民と同じ権利となり,

認められなければ,完全に国民とは異なる権利となる。

問題の大きさは,結論が大きく異なることに一因があると考える。



許容説をとれば,完全に権利が保障されたものと同じ

禁止説をとれば,保障されないものと同じ

というふうに,許容する法律が与える効力が極めて大きくなるのである。


そのような大きな許容を,憲法が認めているのか

というところに根本的な問題があると考えられる。

Last updated 2010.02.18 21:18:53


H22.6.18現在のコメント
量的許容の有無についての議論は,余りされていない。

外国人参政権の大きな問題の一つに,少しだけ認めるということが観念できないことがあります。

実はこれは,禁止説の大きな根拠となります。

認めるのであれば,明文で書いてあるはずである
という条文に忠実な解釈です。

実際,憲法改正で対応した諸外国は多いのです。