2010年6月23日水曜日

前置きは長いが,著作権絡み:岩波少年文庫・・・名著の名訳

前置きは長いが,著作権絡み:岩波少年文庫・・・名著の名訳
[ 著作権 ]


Last updated 2010.04.12 21:13:16
http://plaza.rakuten.co.jp/utuboiwa/diary/201004120001/


岩波少年文庫

前に書いたドリトル先生も,文庫に入っています

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/jidou/

が,私が小学生のときに読んだ名作ぞろいです。



ドリトル先生シリーズは,小学向け

とありますが,小学1年生の教科書をみて愕然としました。



あんな教科書で,ドリトル先生が読めるようになるんだろうか?

岩波少年文庫は,かなり漢字が多く,多分読めそうもないものだけに,ルビを振っています。



ルビは,日本の偉大なる発明の一つと思います。

昔は,印刷の都合とかで難しい(コストがかかる)ものだったかもしれませんが,今となっては,全く困難なものではありません。





本というのは,読む時期が重要と思います。

小学生の感性,

中学生の感性,

高校生の感性

・・・・
を持つ,その時代にこそ読んでこそ意味があるものがあります。



成長して自分が変わることで,本の持つ意味が変わっていくものと思います。


あの時読めば良かった

という本に,今会うと,かなり悔しい気分になります。



それは,ともかく,今読んでも,名作は名作で,それなりに意味があります。
(子供のための検閲です。)



ドリトル先生ならば,多分昔は気付かなかった弁護士のことも,そうですが,

イギリスの風俗や考え方が,面白いですね。



ドリトル先生は,何かのたびごとに,お茶を飲んでいます。



こんなときに,お茶なんか,飲むか?

という事態に,よく飲んでいるシーンがあります。

ご飯を食べていない,
そういえば,お茶も飲んでいない,
早く帰ってご飯とお茶にしなければ

と結構緊迫したときに言っています。





また,井伏鱒二の名訳もあってか,

この岩波版は,国語の勉強にも,かなりなると思います。



訳書というのは,概して,主語述語がはっきりかかれてありますので,純日本文学よりも,国語の力をつけるには,いいものと思います。



例えば,このドリトル先生では,英語的に,

「〇〇」と,〇〇は言った。「〇〇」

という形式でほぼ統一されており,誰の会話かを,最初に明示してあります。





勉強になるのは,
指示語については,

例えば,最初,「ブタのガブガブが」,と明示し,

次に,単に「ブタは」と,訳して書いています。



多分,原文では,後者は,「the pig」

と書いてあるのを訳してあるのですが,

勿論,ある特定の「ブタのガブガブ」を指します。



簡単な例ですが,一杯他にブタがいる場合,形容詞や修飾語を伴った場合でも,「the」を使うことにより,省略化してしまうのが,英語ですが,

注意してみないと,指示語を取り違える可能性があると思います。


技術英語でも,この問題は,割とあります。

〇〇ly gear which  〇〇 is 〇〇〇〇

というのを,後では,

単に

「the gear」

と表記すると英語ぽいですが,

日本語にするときに,「ギア」というだけでは,通じにくい,時には,違うものになってしまう場合があります。



ドリトル先生にも,このような箇所で,そのまま,「スズメ」とかと訳されていますので,逆の意味で,国語の勉強になるものと思いました。

国語の訓練には最適と思います。





矛盾や設定の説明の仕方をみつけてしまうのも,大人の読み方といえるでしょうか?

たしか,

ドリトル先生は,動物語を理解できるが(オウムから習った),各動物語は,動物ごとに異なるという設定だったはずだが,一つの言葉で全部の動物に理解させている場面とかは,何語で話して,どう説明しているのか,とか,



例えば,スズメが馬の話を聞いて,スズメが,ドリトル先生に,こう言っていましたという場合,

馬は,スズメ語を話していたのか,

スズメが馬語を理解し話していたのか,

また,

スズメが,ドリトル先生に話した際は,馬語をそのまま言っていたのか,  

馬語をスズメ語に翻訳してスズメ語で言っていたのかは,

訳語では,分かりません

(読み込みが足りないかもしれませんので,もう少し頑張ります)





このように,
変な視点でみてしまうのは,大人の汚れですね。

純粋な目で見てしまうことができなくなっています。



お?法律のことと関係がない・・・。



敢えていおう。



岩波少年文庫は,今では不適切な表現(とマスコミ等が勝手にいっている場合がおおい)と言われるものが,かなり残っています。

しかし,
それを勝手に変えるのは,厳密にいえば,著作権侵害となると考えます。



一時的な視点から勝手に手を入れることは,それを超える価値を汚すことになるからです。

それをするのならば,いさぎよく絶版にすべきです。



今の教科書に名作がなくなっているのは,このような観点からのものであったら,寂しいというより,国語を失う危機と言わざるを得ません。



このドリトル先生も,アメリカでは,1970年代に発禁となり,1990年代に修正されて出版されているようです(黒人の扱い方が問題になった)。

井伏版は,1961年~1962年に翻訳されていますので(井伏先生,すごいパワーです),修正版を元にしたものではないと考えられます。



訳者が有名すぎるので手を出せなかった,絶版にするのは忍びなかったという面もあるのかもしれません。

確認は必要かもしれませんが, 井伏先生のおかげで,修正前のドリトル先生をみることができるのは,幸せかもしれません。



シェイクスピアは,発禁にしないといかんのですか?

という議論と同じです。

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H22.6.23現在のコメント

岩波少年文庫

ドリトル先生の後書きにも前記と同じことが書いてあります。


時代が変わっても残すべき価値があります。
歴史用語等にもいえますが,

当時は,こう言っていた
というのが事実であるなら,

事実は事実として残す
というのが基本的態度であらねばならないと思います。

、ひとつだって意味を込めているはずです。


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